令和3年3月28日

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大根を 鷲づかみにし 五六本(ごろっぽん)  高浜 虚子


大戦中に長野県に疎開した高浜虚子は戦後まもなくこの句を詠みました。大地に根を張り、冬の厳しさに負けず荒廃したどん底から立ち上がる。ほとばしる情熱と決意は復興に向かう当時の日本の姿に重なります。句集が発刊された昭和21年の頃は街頭紙芝居が誕生する時期とも重なります。街角で紙芝居を演じたオッチャン達はその後の高度成長期には産業労働者やサラリーマンとなり、お客さんの子ども達は団塊世代として競争社会を走り抜け今や老境に至ります。しかしあの街頭の”半径3メートルの宇宙”は心の引き出しの奥にしっかりしまわれています。横浜市ではそれを昭和の貴重な有形民俗文化財として指定し、街頭紙芝居を資料として保存・管理するだけにとどまらず今も演じることで次代に継承する、”生態展示”に取り組んでいます。混乱と不安の時代だからこそ、ひるまず、たじろがず、”頑張るぞ!””負けないぞ!”と自分に声をかけ励まし、新しい時代の扉を開きたいと願います。


おでん鍋 まず大根に 箸を差し      山根 繁


人の数だけ 晩年がある 冬の梅      角  光雄


行く年 しかたない ねていよう      渥美 清(風天)
 
 

寒さが厳しくなると思い出す街があります。横浜関内駅前の勤務先から直線で数百メートルの”寿町”は当時、東京・山谷”、”大阪・釜ヶ崎”と並ぶ知られた”ドヤ街”。高度成長期の建設労働者、港湾労働者の住む共同住宅を”ドヤ”と呼ぶ時代でした。冬の年末になると”越冬闘争”として職場には労働者達のデモが押し寄せました。私は感受性の強い青年期。”福祉の原点は貧困問題”と思い、自身には何ができるか?と自問してジャンパーとゴム長姿で寿町に出かけこともあります。時移り、街頭紙芝居を始めた頃、ぜひその街で紙芝居がしたいと考えました。若いころの政治的な動機ではなく、素直に「街頭紙芝居が一番似合う街」だと考えたのです。そして思い切って寿町の「福祉センター保育所」を訪ねました。そこで出会った園長先生は、本当に魅力いっぱいの方でした。その人の名は・・。


大根を さげて富士山 見てゐたり    新田 次郎


ふるさとは 風の中なる 寒椿      入船亭 扇橋


いつもの席に その人在(おわ)す 冬ぬくし  和久井 雅子

保育所園長は村田由男先生。寿の街では超有名人の方でした。住人6500人(男性97%・単身者)の寿自治会長でアルコール依存者支援の会代表、そして福祉活動家。そして寿町周辺の街の生成から膨張へ、吹き出す課題を見つめて改革・改変の先頭で活動している方でした。その園長先生の快諾を得て2年以上紙芝居をさせていただきました。地域の敬老会や夏祭りでの街頭紙芝居には園児64名(その内34名が外国籍・当時)がいつも応援してくれました。オジサン達の路上宴会に、場所を開けてもらった事もありました。紙芝居舞台など搬入の車は、隣接の自立支援施設”はまかぜ”にいた知人に頼んで駐車場を借りました。それから10年。今は寿町の街も変貌し、福祉センター保育所も新築に建て替わったと聞きました。きっとあの時の子ども達も成長したことでしょう。でも私はこの間に、いかほど何ができたのか?と・・。青年のような自問を繰り返します。でも北風の中で臆せずに、一歩踏み出す新春。もうすぐ春です!


切干や いのちの限り 妻の恩     日野 草城


中年の 華やぐごとく 息白し     原   裕


早春の 光きりりと 枝の先      田畑 房子

 

送る人 送られる人 春隣(となり)  石川 麦浪


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